「障害者」という言葉をなくせば、すべてが解決するわけではありません。
大切なのは、“どんな名前で呼ぶか”よりも、“その人をどう見るか”なのだと思います。
人は誰でも、弱さや不自由さ、支えが必要な部分を抱えながら生きています。
病気、けが、加齢、心の不調、環境の変化――
どんな人でも、人生の中で「できないこと」や「助けが必要な場面」を持つ可能性があります。
その中で、社会の仕組みや環境によって、継続的に大きな不自由や生きづらさを抱えている人たちが、「障害者」と呼ばれています。
つまり、“障害”はその人自身だけにあるのではなく、社会との噛み合わなさの中で生まれている部分も大きいのです。
たとえば、段差がなければ自由に移動できる車椅子ユーザーもいます。
ゆっくり待ってもらえれば会話できる失語症のある人もいます。
働き方や環境が合えば力を発揮できる発達障害のある人もいます。
逆に、今「健常者」と呼ばれている人も、事故や病気、年齢によって、いつ支援を必要とする側になるかわかりません。
だから本当は、「障害者」と「障害者じゃない人」を完全に分ける線があるわけではなく、誰もが支える側にも、支えられる側にもなり得る存在なのだと思います。
実際、「障害者」という言葉に傷つく人もいれば、逆に、その言葉があることで制度や支援につながれる人もいます。
そのため、単純に別の呼び名へ変えれば解決するわけでもありません。
これまでにも、
- 「チャレンジド」
- 「ハンディキャップのある人」
- 「多様な身体を持つ人」
- 「支援が必要な人」
など、さまざまな呼び方が提案されてきました。
けれど、どの言葉も時間が経てば、結局は同じ偏見を背負ってしまうことがあります。
なぜなら問題の本質は、“名前”そのものではなく、“その人をどう見るか”にあるからです。
だからこそ、人を「障害者」という一つの固定されたラベルだけで見るのではなく、
- 「車椅子を使う人」
- 「失語症のある人」
- 「支援を必要としている人」
- 「今この場で困りごとを抱えている人」
のように、その人自身や、その人が今どんな困りごとを抱えているのかを、丁寧に見ることが大切なのではないでしょうか。
理想は、特別な名前を強調しなくても、必要な配慮や支えが自然に行われる社会です。
「障害者だから特別扱いする」のではなく、
「困っていることがあるなら支える」が当たり前になる社会。
そんな社会になった時、“障害者”という言葉の重さも、今より少し変わっていくのかもしれません。
正直に言うと、私は「障害者」という言葉が好きではありません。
もちろん、制度や支援につながるために必要な場面があることも分かっています。
でも、その言葉だけで“ひとくくり”にされてしまう苦しさも感じています。
人は、本当はもっと一人ひとり違う。
車椅子を使う人。失語症のある人。痛みを抱える人。
困りごとも、生き方も、それぞれ違います。
だから私は、“ラベル”よりも、その人自身を見られる社会であってほしいと思っています。

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