入院のあと、私は話すスピードがとても遅くなりました。
でも、それは「考えていない」わけではありません。
むしろ、頭の中ではたくさんのことが動いています。
たとえば、
「今日は晴れていますね」
という言葉自体は、ちゃんと浮かんでいます。
ただ、そのまま口に出そうとすると、言葉が崩れてしまうことがあります。
日本語にならなかったり、自分でも何を話しているのか分からない音になってしまったりするのです。
だから私は、一度頭の中で“試しに話す”ようにしています。
思いついた言葉を頭の中に持ってきて、
一度発音してみる。
合っているか確認する。
また組み直す。
もう一度試す。
そんなふうに、脳の中で何度も行ったり来たりしながら、ようやく言葉として外に出しています。
ただ、それだけ慎重にやっていても、相手によっては「何を言っているのか分からない」と言われたり、
自分の言いたいことの4分の1、あるいは5分の1ほどしか伝わらないこともあります。
頭の中には、ちゃんと考えや感情がある。
伝えたいこともある。
でも、それが外に出た瞬間に崩れてしまう。
これは、想像以上に苦しいことです。
さらに、私は右手にも不自由さがあります。
そのため、「書く」ということも簡単ではありません。
不思議なのですが、文字にするときも、話す時と似たことが起こります。
たとえば、
「今日は晴れていますね」
と打とうとする。
頭の中では、
「今」の次は「日」、
「今日」の次は「は」だと分かっています。
でも、実際にキーボードを打つと、文字を抜かしてしまったり、違う文字を打ってしまったりすることがあります。
つまり、頭の中では分かっている。
でも、“分かっているもの”を外に出す途中で、崩れてしまうのです。
だから私は、話す時も、書く時も、
常にどこかで確認作業をしています。
「これで合っているか」
「ちゃんと伝わるか」
「間違っていないか」
その確認を何度もしながら、一つ一つ言葉を外に出しています。
周りから見ると、ゆっくりだったり、間違いが多かったりするかもしれません。
でも自分の中では、必死に言葉をつかまえて、外へ届けようとしている感覚があります。
ただ、最近は少し希望も感じています。
ChatGPTのように、口で話したものを拾って、文章として整理してくれるものが増えてきました。
もちろん、完璧ではありません。
違う言葉になることもあります。
でも、自分だけでは外に出しきれなかった言葉を、形にする手助けをしてくれる。
それは、私にとってとてもありがたいことです。
先日4月25日に、たくさんの「言葉を伝えづらくなった方々」とお会いしました。
そして、「言葉が出にくい」と一言で言っても、本当にさまざまな形があることを改めて感じました。
たとえば、
話すことが難しいため、すべて筆談で伝えている方。
また、言葉自体は出せる。
けれど、自分の頭の中にあるものを、そのまま外へ出せない方。
本当はもっと多くのことを考えているのに、外に出せるのは10分の1、20分の1ほど。
自分の思った通りに話せない。
そんな苦しさを抱えている方もいらっしゃいました。
そんな中で、昔、私の介護をしてくださっていた方が、ある言葉をくださいました。
「普通の人は、お椀で言葉をすくって相手に渡している。
でも、あなたは針先でしかすくえへんのや」
そう言われました。
もちろん悪口ではありません。
むしろ、私の状態を、とても分かりやすく表現してくださった言葉でした。
そして、その方は続けて、こうも言ってくださいました。
「あなたは、記憶がなくなっているわけではない。
分かっている。けど、出てこないんや」と。
特に、人の名前などがそうです。
「あの人、誰やったかな」
という感覚は、誰にでもあると思います。
顔も分かる。
どこで会ったかも分かる。
どんな人かも分かる。
でも、“名前”だけが出てこない。
私の場合、その感覚が、とても強く、広く起きているような状態なのだと思います。
つまり、何もないわけではない。
頭の中から消えてしまったわけでもない。
ちゃんと“ある”。
でも、その場所へたどり着けない。
だから私は、
「分からない」のではなく、
“分かっているものを、取り出せない生活”の中にいるのだと思っています。

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